トナカイン本舗

いのちとこころと向き合う現場での日々、大切な家族との日々を綴っていきます

自分を認められないときに、思い出してほしいこと

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こんにちは、トナカインです。

久しぶりのブログ更新となってしまいました。

実は6月の頭に祖母が亡くなり、いろいろと考えているうちに1ヶ月が過ぎてしまいました。

でも、「悲しくて…」というマイナスな想いからではなく、むしろ祖母からたくさんの気づきをもらった気がしています。今日はなんとなくそのことを、書きたいと感じました。

 

仕事柄、毎日、「自分を認められない」ということで苦しんでいる方のお話を聞くことがとても多いです。せわしない日常が殺伐と感じられたり、情報の波に飲まれて、なんら確かでない“何かの基準”に自分の生き方はズレていないかとソワソワしたり、何か夢や目標を持って能動的に生きていないと、もしくは生きていることに意味付けがないといけないような、そんな“目に見えない何か”に心が押しつぶされそうになって生きている方が、意外なほど多いことが感じ取れます。

 

一昔前は戦争があって、物もこと足りない前提がそこにはあって、だからこそ、寝て起きて食べて呼吸をして働いて、女性であれば命をつないで、そのことだけでもう、立派な生きている証であって、感謝を持てて、満足を持てたことと思います。

不自由は確かにあったかもしれないけれど、同時にその日々の中には、「私はこのままでいいんだろうか」「この生き方で間違っていないんだろうか」「才能(個性)を活かしたい」というような心の迷いはきっと、持つ必要はなかったのだと思います。

 

ここで言いたいのは、昔が良かったとか、今の時代の問題提議ということでは全くありません。そうではなくて、ただ、生きることに迷いの心が生じた時、自分のことを認められないという時には少しだけでも、思い出してほしいと思うのです。

 

原点は命であって、何の役に立てていなくても、他の誰かより秀でた何かが見つからなくても、当たり前みたいな寝て起きて食べて働いて寝てという毎日であっても、生まれてきたことだけで、そして生きているということだけで、もうそれで十分あなたは生きるべき生を全うしている立派な、素晴らしい人だということを。

 

あなたの命がこの世に誕生するまでの間、もしご両親が出逢っていなければ、ご両親のご両親が出逢っていなければ、江戸時代の、鎌倉時代の、平安時代の、それぞれの遠い時代のあなたの先代たちが出逢っていなければ、連綿とつながる命のバトンがどこかで途切れていたら、あなたは決してこの世に生まれていなかったこと。

そのバトンを受け取ったということだけでも、すごく意味のある大きな存在なんだということを。価値ある人間なのだということを。

 

その上で、夢や目標や、生に対して良い意味でもっと貪欲になることも、それもまた素晴らしいことだと思います。ただ、「そうでなければならない」ということは決してないのだと、そのことを誰か、身近にいる人が伝えてくれるのならば一番素敵なことだと思います。そうでなければ、あなたから、誰かに伝えてしまえばいいのです。意外なほどに多くの人が、同じ想いを抱えていることがわかるかもしれません。

 

祖母を納棺する最期、もうそこには祖母はいないのだけれど、おでこに触れて、「ありがとう」という言葉を伝えました。それは、生まれてきて何かをしてきてもらったこと以上に、祖母を通じて、母へ、私へ命をつないでもらったことの大きさを、改めて命のバトンを受け取ったと、そのように感じた素直な想いでした。

 

もし自分を認められない、自分の生き方に迷った時には、ほんのわずかでも良いから、命という観点に戻って自分を誇りに思ってほしいです。

そして人と対峙する一人でも多くの大人が、そのこと自体の素晴らしさを認めて、享受できる人が増えてほしいと心から思います。そのときこそ人は、本当のやる気や輝きが生まれてくるのですから。

それでは本日も、メリーライフ!